2014年3月4日火曜日

裏方の仕事に目をむける

日本に帰国していたときせっかくの機会だったので、「半沢直樹」とアニメ「進撃の巨人」をそれぞれ全話視聴しました。どちらも二転三転するストーリーや役者の演技に圧倒され、ただただ映像に見入るばかりだったのですが、各話のエンドクレジットが流れたときに映画館で何度も味わったこの感覚に再び襲われました
「一つの作品を作り上げるのに、一体どれだけの人が製作に関わっているんだ」と。

映画館に行ったことのある人なら、エンドクレジットが流れきる前に席を立って劇場を出る、ということを一度は体験しているはず。最後まで待つのが退屈になるほど大勢の裏方の人が製作に関わっているという事実を逆に考えて、もしもその裏方の人達が一部でもいなかったらはたしてどういう作品に仕上がっていたのかと思うわけです。裏方の人の個人的な定義をしておくと、
「エンドロールで名前を見て、作品のどの部分にその人の仕事が反映されているか思い浮かぶかどうか」

先の例で言えば、堺雅人さんは半沢直樹役で作品を通して出演しているので、堺さんの名前を見れば作中における彼の仕事ぶりをすぐに思い浮かべることができる、そういう意味で堺さんは裏方の人間ではない、という解釈です。同様の理由で音楽担当の服部さんも裏方の人ではないと考えます。

華々しく見える表舞台の人間だけで作品が成り立つのかというととんでもない。「進撃の巨人」で考えてみても、原画、効果音、カメラワーク、構図、背景の着色、脚本・構成、動画チェック、コンセプチュアルアートなど挙げるとキリがありません。これら各々の担当がどれだけ重要かを示すため、仮に背景の着色の裏方がいなかったとしましょう。色彩感覚に乏しい人間が着色をするため、遠景の山も近景の山と同じ濃度で着色したり、光源をまるで無視したような明暗にしたりする、ということになりかねない。すると作品としてどうなるか。音楽やストーリー、声の演技は素晴らしいのに、背景の塗りだけ違和感が残り、それが前面に押し出されて視聴者には絶妙の気持ち悪さだけが残るという状態に陥ります。

人間の脳というのは不思議なもので、違和感の全くない完成品であればあるほど、脳を素通りするように出来ているものです。例えば、一流のプレゼンを見ているときは時間の経過を忘れるようですよね。一流のクラシックを聞いているときは完成された音が脳を通り抜けて頭が癒される気がしますよね。一流のフランス料理を味わうときは完成された味が自然に喉を通り抜けていきますよね。
完成品は素通りさせる一方で、人間の脳は違和感を探知するときは一瞬です。このプレゼン全然練られてないなとか、なんだこの不協和音はとか、なんだこの妙な味付けはとか、異物に気づくときは驚くほど速いものです。

つまり、映像作品であれ何であれ、この作品は真に素晴らしいと感じたら表舞台の華やかさだけに捕らわれて脳内を素通りさせずに、そういう時こそ、この華やかさを生み出している土台のひとつひとつは何なのかと裏方の仕事に目をむけるべきなのです。人間の脳に違和感を与えないということがどれだけ大変なことか、何かを作ったことがある人であれば痛いほどよく分かるはず。そして裏方の仕事に目をむけられる人であれば、ぱっとしないような創作物であっても、その背景にあるひたむきな努力に共感し、それを簡単に馬鹿にするようなことはできないと思います。

帰国したときについでに鑑賞した、昔からのお気に入りのドラマ「王様のレストラン」の第二話の後半部分でオーナーと千石さんの間でこんなやりとりあります:

オーナー「不思議な感じです。裏でどんなことがあったか全然知らないで、あの人たちは食べてる。あんなに美味しそうに。いい気なもんですよね」

千石さん「それでいいんです。それがレストランです」

いい言葉です・・・作り手は、受け取り手に違和感を感じてもらいたくない、まさにいい気なもんになってもらうために細部に神を宿らせる。そしてこれには個人的な続きがあって、受け取り手は受け取るだけで終わるなら、いい気なもんになったままでいればいいと思います。しかし、受け取り手であると同時に作り手でもあるのなら、裏でどんなことがあったか想像をめぐらせることを忘れてはいけないと思います。